苗床

菌床じゃないよ

週間日記(2023/10/02-10/08)

 

2023/10/02 Mon.

 今日からまた家の工事。錆止めがどうこうと言っていた。

 昨日収穫したコーヒーの実から種を取り出して、乾燥させる作業をした。真っ赤に熟したコーヒーチェリーを包丁で縦半分に切ると2粒の種が入っていて、これがコーヒー豆になる。コーヒーチェリー自体はさくらんぼより少し固い手触りのように感じていたけど、果肉が非常に少なく実の中身がほとんど種なので、それで固いように思ったらしい。種を取り除いた果肉は柔らかくて、アカネ科とバラ科の違いはあれどやっぱりさくらんぼに似ている。果肉からなのか種から匂うのか、コーヒーらしいといえばそうも思えるものの、何らかのアルカロイドでも含みそうな毒草をちぎった時の手に付いた汁のような独特の青っぽい刺激臭がした。種は白に近いアイボリー色で、いつも見るコーヒー豆と変わらない形状をしていて、半透明のゼリー状の膜のようなもので覆われている。焙煎する前に種をしばらく乾燥させる必要があり、このゼリー状の膜を取り除かないとうまく乾かないらしい。1粒1粒の種が小さくて扱いにくい上に、すぐに手から滑り落ち、ぬるついたゼリーは洗っても擦っても剥がれない。あまり思うようには剥ぎ取れなかったものの、種を水で濡らしてキッチンペーパーで地道にごしごし擦り取るのが一番効果的だったように感じた。洗った種は屋外の風通しの良い日陰で乾かすのが望ましいのだろうけど、ただでさえ風で吹き飛んだり遊びに来るネコにひっくり返されたりする可能性が高いのに、今は家の外壁を塗装してもらっている状況なのでとてもそこには置けない。結局、毎日除湿機をかけて洗濯物を干している部屋で乾かすことにした。我が家のネコ達に見つかってぶちまけられないことを祈っている。今日は4粒のコーヒーチェリーから、8粒の種が採れた。コーヒーノキにはあと3粒ほど実が生っている。14粒のコーヒー豆になったとして、コーヒー1杯分くらいにはなるだろうか。まだ焙煎もしていないのに、妄想が膨らむ。

 

2023/10/03 Tue.

 家の工事。今日一日で家全体の外壁を塗り直してくれたそうで、仕事の早さに脱帽する思い。

 朝、ブラシで髪をといていたら白髪を1本見つけた。白髪は抜かないほうが良いと聞いたことがあるけど、いざ自分の頭に生えてくると迷わず抜き取ってしまう。ここ1ヶ月くらいの間に3本見つけて、これまでの時点で見つけた白髪は累計10本くらいになると思う。最初に気付いた白髪は、当時は髪を染めていたので毛先は茶色、根元が地毛の黒、その中間が白という変なものだった。今朝の白髪はもう毛先から根元まで真っ白で、ちょっときらきらしているように見えた。映画「チャーリーとチョコレート工場」の中で、ジョニー・デップ演じるチョコレート工場長ウィリー・ウォンカが初めて自分の髪に白髪を見つけて、抜き取ってまじまじと見つめるシーンを思い出す。それによってウォンカ氏は自分の年齢や工場の未来を思ってチョコレート工場を継いでくれる後継者となる子どもを探すことになる一方、10本目の白髪を見つけた私は無職で、後継どころか仕事自体を探さなければならない身だ。経営者になりたいとは微塵も思わないけど、ウォンカ氏のようなユニークでエキセントリック、子どものような好奇心と感性を失わない魅力に溢れた大人になることには少なからず憧れを抱いていたので、そこから遠くかけ離れたしょうもない現在の自分にがっかりする。他人と比べても仕方ないし、ましてや物語の中のキャラクター相手では比較しようがないということは頭では分かっているつもりだけども。若い頃に色々なことでたくさん悩んでいても、年を取ると大して気にならなくなってくるという意見は見かけるけど、こうして白髪を見つける頻度が増えて老いていくことを実感しても、自分のしんどさが軽減されていくとは到底思えない。白髪の本数に反比例して苦しさが減るものなら、今すぐ『アルスラーン戦記』のパラフーダのように真っ白になっても構わないのに。

 

2023/10/04 Wed.

 今日も工事。家のあちこちから色んな音がしていた。障害基礎年金の申請手続きに必要な病歴・就労状況等申立書を書かないといけないと思いながら、工事の物音や人の気配が気になって手つかずになっている。外から自分の姿が人に見えることも嫌だし、家の中に自分がいるということが外から分かるのさえ嫌だ。カーテンを閉めて生活音を極力抑え、息を潜めて外界に怯えながら日中を過ごすことについては、経験を重ねてきたので板についている(?)。新卒で入った会社を半年足らずで辞めて実家に帰ってきた後、長いことそうやって日々を送ってきたので、不安な時に飲む頓服薬がない点こそ違えどこの生活には馴染み深いものがある。またこの振り出しに戻ってくるとは思ってもいなかった。

 ひたすらTwitter(Xとは呼びたくない)に入り浸っている。自分でもツイート(ポストとは呼びたくない)したい内容はあれこれあるものの、文章を考えて文字を入力する元気がない。スクロールやタップはできるので、気になるユーザーを見つけて過去ツイを遡ったり、普段なら見ないようなユーザーの投稿まで覗いたりしている。アプリの設定でサウンドをオフにしているにも関わらず、新規の投稿を読み込む度にシュポッというダサい音が発せられる仕様になったので、それにいらいらしながら広告だらけのタイムラインに張り付いている。こうして書き出してみると、Twitterを見なければいいのにと自分でも呆れる。でも、家族以外の人と日頃ほとんど交流がない自分にとって、生身の人間の気持ちや考えに一番接することができる場所がTwitterなので、やっぱりやめられそうにない。

 外の気配が気になって、気にする必要はないと分かっていても気になってしまって、何もしていないのに疲れる。朝から夕方まで屋外で作業をしている業者の人はどう考えても自分とは比較にならないほど疲れが大きいだろうに、涼しい家の中で座り込んでいる自分が疲れるのは、我ながら馬鹿みたいだなと思う。働きもせず、勉強もせず、家事も大してしないでただ日がな一日スマホを眺めている自分がいる家を、業者の人達が汗を流して修理してくれていると思うと、罪悪感や申し訳なさで消えたくなる。向こうは仕事なのだから、家の中にいる住人が何をしていようが何を考えていようが関係ないだろうけど。

 

考えたことのメモ

・人と会う度に毎晩頭の中で一人反省会を開いて、恥ずかしさや後悔を何日も何ヶ月も引きずり、やっと忘れたと思ったらふとした時に数年前の失敗を思い出す。人に嫌な思いをさせて自分を悪く思われるのが怖いから、他者を頼れないし、誰かに協力も仰げない。社会で生きていくのに必要だろうスキルが皆無。

・凍死は苦しさが少ない死に方だとネットで見て、なるほど良いかもなあと思った。でも、凍死できる場所へ辿り着くのがそもそも大変だし、私有地であれば家族に賠償金の負担を背負わせてしまうだろうし、死体を見つけてしまった人の精神的ショックを思うととても実行に移す気にはなれない。何より、大好きな家族に自死遺族としての面を与えてしまうのは、やっぱりあまりにも申し訳ない。

 

2023/10/05 Thu.

 今日も工事。工事自体はどうやら明日で終わるらしい。応援のスタッフが来てくれたので、予定よりずっと早く済むそうだ。とてもありがたい。

 障害基礎年金の申請に要る病歴・就労状況等申立書の文面に使えそうなネタを探して、自分の当時の様子が分かりそうなものを漁る。発病から現在まで、数年ごとに区切って自覚症状や日常生活、就労状況について患者本人が欄に記入しなければならず、これがすごく面倒に感じられてなかなか取り掛かれずにいた。こうした情報が申請に必要なんだろうとは思うけど、当時の記録を取っていなければ覚えていないし、ただでさえ病気や障害を抱えた当事者がこれまでを振り返って困りごとを羅列するのはかなり負担が大きい作業だと思う。幸い私に関しては、日記、手帳、Twitter、ブログ、趣味の四コマ漫画等の形で色々と記録を取っていたので助かった。もっとも、最初に卒業したほうの大学以前の日記や手帳は、就職したら近いうちに死ぬつもりでいて引っ越しの際に身辺整理として処分してしまったので、その時期について参照するものがなくて困った。数年前に書いた自分の日記は読み返してみるとなかなかおもしろかった。何より、紙のノートにきちんと手書きで毎日日記をつけているのがすごい。今は夜になるともう机に向かってペンを握る体力気力が残っていなくて、手で文字を書くより早くて楽なパソコン入力でなら日記を書ける時もあれば、それすらできずに翌日思い返して書くこともある。ここしばらくは週間日記と称してブログにとりあえず載せられるように、表現をぼかしたり、ネットに上げるのははばかられるような特に個人的な内容は書かずにおいたりもしている。そうして他人に見られても良いように体裁を整えた日記ではなく、ありのままの事実や固有名詞を挙げてオチも何もないできごとまで書いている日記は、やっぱり読み返していておもしろい。そもそも日記は自分自身のために書くものなのだから、そのほうが日記としてより望ましいあり方なのかもしれない。そうは言ってもノートに手書きする元気はないので、結局今日もGoogleKeepに書き溜めているけれど。

 

2016年の日記から

・2016年の途中までは、今と違って本を色々ちゃんと読んでいた。地元の市立図書館にも行き、クラシック音楽も積極的にCDを聴いて、趣味の絵も時々描いていた

・手帳に挟んであった遺書らしきメモの文面が、「じゃあね!」と締めくくられていた。軽い

・日記を読み返して気付いた事実。不安と憂鬱で苦しいけど自傷行為をする勇気はなかったので、むしゃくしゃして髪を切ったんだと記憶していたけど、実際は精神科の診察やカウンセリングに行った日に疲れて帰ってきて髪を切ったのが2回あったというのが本当だった

・庭の一角で石だらけの固い地面を掘って花壇だか畑だかを作ろうと頑張っていた時期の日記、「自分の墓穴を掘る想像をしながら耕していた」

・「作業療法へ行く途中、歩道に剥き出しのメロンパンが落ちていた」

・5時間も草むしりしたとか、病院から1時間半歩いて帰ったとか。今よりはるかに体力があって驚く

・「花の咲く木を庭に植えておけば、私が死んでも花が咲くから良いのでは」

・服毒自殺を図る半年前から、吐き気止めを買って準備していた。吐き気止めを飲んでいたことはすっかり忘れていたけど、飲んでも何の効果もなかったな

・「高校に行きたくないと泣き叫ぶ夢を見た」

・「バロウズを読んだ後、大麻やあへんげしを栽培する夢、LSDをやる夢を見た」

 

2017年の日記から

・「生きていることと生き続けることがきついから死にたい」

・「じゃがいもかと思っていた葉がミントだと判明した」

・「死ぬ30分前に爪を切る間抜けさ」(2017年5月22日、自殺未遂当日の日記)

 

2023/10/06 Fri.

 家の工事最終日。月曜日以降に、家の周りに組まれた大がかりな足場を解体するそう。

 髪を切ってもらいに美容室へ行った。美容師さんに会って早々、「この花の名前分かる?お客さんに何度も訊かれるんだけど答えられなくて」と店先に置かれた鉢を指差して言われたので、レウコフィラムだと答えた。鮮やかなピンク色の花とシルバーがかった色の葉が特徴的で、働いていた園芸店に苗が売られていたので覚えている。髪を切ってもらっていると観葉植物の話題になって、「植え替えはしたほうが良いのか」「植え替えの時、いきなり大きなサイズの鉢に植え替えてはいけないのか」と尋ねられた。植物が成長してくると、生育が悪くなって葉が枯れ落ちたり根詰まりを起こしたりするので定期的に植え替えたほうが良く、大きすぎる鉢に植え替えると根が張り切っておらず土の中に水分が残って根腐れを起こすから、ひと回り大きいサイズの鉢に植え替えるのが良いと伝えた。もっとも、私は話すのが下手で、早口なのに滑舌が悪くどもるのですらすらとは言えなかった。植物や地元のことについて話している間は良かったものの、新型コロナの話題になり、美容師さんが「あの国の人達は野生の◯◯や◯◯を食べるから…」と特定の国名を挙げて食文化とウイルスを関連付けて話し始めて狼狽えた。そういうことを言うのは良くないとはっきり伝えたいのにその勇気がない自分に自己嫌悪しながら、それでも肯定だけはしたくないので「日本で野生の鹿とか猪とか食べるのと似てますね」と相槌を打った。動物の種類が違うだけで、野生の獣を捕らえて食べる文化は私達が住む国にもあるし、私達が属する文化圏で当たり前のように食されている物で、他の文化圏から見るととんでもない物を食べているように思われる食材だってある。そもそも、人種や民族、国、集団の行動と感染症の原因を安易に結びつけてはいけないし、もし特定の土地に関連づけられる病気があってもそれについては差別的な見方にならないよう慎重を期すべきだと思う。美容師さんにはもう何年もお世話になっていて、話の流れで私が精神科に通院していることや無職であったりパート勤務をしていたりといった事情を話しても、こちらが嫌だなと思うような対応はされなかったので、私にしてはかなり安心して美容室に通うことができていた。信頼していたからこそ、急にああした差別的な発言をされると驚いてがっかりすると同時に、自分も差別を差別だと思わないまま何の自覚もなく差別的なことを話してしまっていたらどうしようかと不安になる。「自分は絶対に差別をしない」と断言しきれるほうが怖いので、常に自分の言動を省みてアップデートを繰り返すほかないのだろうとは思う。美容室を出て、気持ちはもやもやしていたけど、頭は軽くなってさっぱりした。やっぱりベリーショートが一番快適だ。髪も傷みにくいし、洗うのも乾かすのも楽で、くせ毛の扱いに困ることもない。自分の髪質だとどうしても、一定以上の長さに伸ばすとうねって手に負えなくなるので、髪の毛の状態に煩わされずに済むのは精神衛生上にも良い気がする。

 

2023/10/07 Sat.

 スーパーへ食材や日用品を買いに行く。野菜売り場の夏野菜が減っていて、夏の間にもっとトマトやなすを食べておけば良かったと思った。春になってから同じ後悔をしないように、白菜や大根が安く出始めたらしっかり食べておきたい。

 

2023/10/08 Sun.

 ショッピングモールへ買い物に出かける。かわいい雑貨や文房具を眺めて、地元の書店より充実した紀伊國屋をうろうろして楽しかった。癖で心理学本のコーナーを覗くと「一般心理」と「臨床心理」の棚が並んでいて、なるほどこうしてきちんと住み分けしてあるのは良いなと思った。ところが、よく見ると一般心理の棚に精神分析の本やフランクルの『夜と霧』があったり、臨床心理のほうに発達障害を一般読者向けにイラスト多めで分かりやすく解説した本があったりでめちゃくちゃだった。こんなことなら分類しないほうがまだましだと思う。「引き寄せ」とやらの本が心理学本コーナーに置かれた地元の書店よりはまだ良いというのが、また悲しい。何かしらの生きづらさを抱えた人がこの心理学本コーナーから情報を得ようとする時、自称心理カウンセラーや「繊細さん」の本を真に受けて、本来繋がれるはずだった適切な医療や支援に辿り着けない可能性を思うとぞっとする。もっとも、臨床心理士でも陰謀論を支持している人や、国家資格である公認心理師資格を持っていても心理学を学部や院で学んでいないという人もいるので、資格でさえ信頼できる判断材料になるとは限らない。めちゃくちゃだ。